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7.都倉俊一とぼくの女性に対する憧れ

ぼくは都倉俊一の曲が好きだ。
どうして都倉俊一の曲がこんなに好きなのか、彼の曲のどこにそれほど心ひかれるのか、自分でもよくわからない。たぶん、言葉ではうまく説明できないだろうと思う。
自分に素直になって、ほんとうに好きな都倉俊一の作品を選んで、そのレコードを目の前に並べてみた。ぼくが無人島に行くとして、持っていくレコードを限定されるとしたら、彼の曲の中から何を選ぶだろう。これは、実際難しい。全部持っていきたいくらいだ。でも、強いて選ぶとなると、結局、こうなる。

「あなたの心に」(中山千夏 ) 作詩:中山千夏 編曲:大柿隆 ビクター SV−1056

「何でもない何でもない」(柏原よしえ) 作詞:阿久悠 編曲:都倉俊一 日本フォノグラムFS−2181

「感情線」(C/W「可愛い反抗」) (黒木真由実) 作詩:阿久悠 編曲:都倉俊一 キング BS−1942

これらのレコードをプレーヤーにのせて、聴いてみた。やはり、すばらしい。特に「可愛い反抗」は聴いていて、涙が止まらなくなった。

おそらく、ぼくは都倉俊一の曲を通して、彼の持つセンチメンタリズム、含羞の優しさ、ロマンティックな感情、そういうものを感じ、その魂に共感し、感動しているのではないか...。そんな気がする。そして、都倉俊一がしばしばコンビを組む阿久悠の歌詩に彼はやはり、シンパシーを持っている。そのシンパシーが曲に乗りうつっている。そうした思いを歌手が感じとって、歌うとき、彼ら、彼女らの思いが、渾然一体となってぼくの心に強く訴えかけてくる。そのためにぼくは、心の奥底から揺さぶられるような感動を覚える。ああ、もどかしい。ぼくの表現力の限界です。もっと、正確な表現があるはずです。ただ、おおよそ、そういうことなのだろうと思います。
ぼくは都倉俊一の曲を聴くとき、やはり、自分が男として、女性とか、少女とか、処女性とかに対する憧れを持っているということに気づかずにはいられない。
例えば、黒木真由実の
「可愛い反抗」を聴くとき、どうしてもそれを感じる。阿久悠の歌詩は少女の内面を見事に表現している。弘田三枝子の「子供じゃないの」や梅木マリの「箱入り娘は嫌よ」にも相通じる少女の気持ち。それを阿久悠はさらに深く掘り下げて表現してみせる。それはまた、都倉俊一の思いでもある。黒木真由実はその思いに共感して、真の自分の思いとして、この曲を歌っている。
彼女は歌が特別うまいというわけではない。けれども、
「可愛い反抗」における彼女の切ないまでの訴えかけには泣けてしまうほどの感動を覚える。歌がうまい、へたというのは、音程やリズム感、声量、そうしたものを基準として決まるのであろう。しかし、誤解を恐れずにいうならば、それは歌にとって重要な要素ではない。歌手や曲をつくる人たちに何か人々に語りかけたいものがあるのかどうか、あふれるばかりの思いがあるのかどうか、それを訴えかけようとしているのかどうか。それこそが重要なのだと思う。いや、歌だけではない。音楽全体、芸術全体について、言えることだと思う。歌の技巧というのは、魂を訴えるための手段に過ぎない。魂の訴えを感じることができない歌には、ぼくはぜんぜん胸を動かされない。世間には、歌がうまいといわれている歌手が大勢いる。しかし、彼ら、彼女らの曲を聴いても、全くつまらないと思うことも少なからずある。むしろ、世間では歌がへただといわれている歌手であっても、曲を聴いてものすごく感動することがよくある。女性アイドルなどにはそういう人が多い。歌がうまいということはそれ自体、それほど意味があることではないと思う。極言するなら、「歌は魂である」と思う。
どうして、女性の作詩家はこういう歌詩を書けないのだろう。自分の感情とか、身体感覚とかを当たり前のこととして感じているからなのではないか。特にそれを詩にして表現するまでもないことだと考えているのではないか。そうとしか思えない。これは、太宰治の「女生徒」を読んだときに思ったことでもある。ぼくはこれを読んで、少女というのは、こういう感覚で毎日を過ごしているのかと思うのと同時にこれを書いた太宰治が男性であることも不思議だった。女性の作家はどうしてこういう作品を書かないのだろう。ぼくは、純粋に女性がどういう思いで毎日を過ごしているのか、できることなら、一日だけでもいいから、女性になって、その感覚を味わってみたいと思う。それは、不埒な思いからのみそう考えているのではない。ヒトとチンパンジーとは遺伝子レベルでみれば、98%まで同じだというのを何かの本で読んだことがある。それなら、男と女なんて、遺伝子レベルでみれば、ほとんど同じといってもいいくらいであるはずだ。それなのに、考え方とか、からだのデザインとかはぜんぜん違うように思える。
かなり前、ぼくが中学生くらいのときに妹にこんなことをいわれたことがある。「どうして、男のひとは、女の乳房とか、あそことかに興味があるの?私たちにとっては当たり前のようにからだについているものなのに。」ぼくは返答に困るとともに、愕然とした。女性というのはそういう考えでいるのか。女性にとって、男と女の営みというのは、自然とそうするというものではないのではないか。だれかに教えられて、はじめて自分にそういう欲望があるということに気づくものなのか...。少なくとも、ぼくはそうではなかった。だれに教わるでもなく、自然とそういう欲望を感じた。いつ、感じたのかは、はっきりとはわからないけれども、当時の妹くらいの年齢のときには、漠然としたものではあるが、明らかに感じていた。

たぶん、こういう気持ちはぼくだけが持っているものではないと思う。男はきっと、大昔から、女性に対して憧れると同時に女性がどういう思いで毎日を過ごしているのかという気持ちを抱いていたに違いない。「とりかえばや物語」しかり、大林宣彦監督の「転校生」しかり。「とりかえばや物語」の作者や、山中恒はおそらく、そういう気持ちを持っていたのではないかと思う。
かなり、話が脱線してしまった。ぼくは女性に対して、憧れを持っている。女性はそれをわかってくれるのかどうか。この気持ちは決して肉体的な関心だけではない。むしろ、どういう感覚で、日々を過ごしているのか。そのことが純粋に知りたい。男と女の営みのとき、女性はどういう感覚でいるのかとかいうことはその一部に過ぎない。けれども、おそらく、世の中の女性はこんなことをぼくがきけば、不埒な気持ちでそういうことをきいているとしか思わないだろう。だから、ぼくはいまだにそれをきくことができないでいる。

12.1.29

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